二十五歳

めざましテレビの「ココ調」というコーナーで、25歳についてやってました。加藤智大とサカキバラ君が、1982年生まれということで、現在25歳の人々はどんな意識で生きているのか、というのを明らかにする、という主旨のものでした。以下、そこで出たアンケートの結果(完璧ではないかも知れませんが)。(Q、Yes/Noのパーセンテージ)

Q1:自分自身が孤独だと感じることがある。(71%/29%)
Q2:加藤智大容疑者の孤独には同情できる。(22%/78%)
Q3:自分はコミュニケーションが下手だと思う。(51%/49%)*1
Q4:格差社会を実感している。(91%/9%)
Q5:恋人がいないと不幸だと思う。(17%/83%)
Q6:何でも相談できる友人がいる。(87%/13%)

まぁ、朝の情報番組の、中でも軽いコーナーで取り上げていたわけで、こういうものにいちいちツッコミを入れる必要もないと思うのですが、何かヘンやなと思いました。だいたい、25歳の特徴を明らかにするのに、25歳だけを調査する、というのがそもそもおかしな話なんです。
より具体的に言うと、Q2の結果に関しては、「加藤容疑者の孤独感には同情できるけれども、だからといってあのような事件を起こすべきではない」という意見が多かったようです、という締めの言葉があり、これは酷い、と思いました。調査のイロハも分かっていません。街頭調査というのも問題で、人と顔を付き合わせては「加藤容疑者に同情できる」とは言いにくいでしょうし、エクスキューズとして「だからといってあんな事件を起こすべきではない」という余分なコメントを付け加えられることになる。それで結果もおかしなことになるんです。
個人的には、Q5の質問も悪いと思います。というのは、(今)恋人がいないこと、と(昔も今も未来も)恋人がいない(あるいはできないと思っている)ことは違いますからね。非モテ意識の何たるかを全く分かっていない。
格差社会、(性愛を含めた)コミュニケーション、ネットワーク、これらの問題は、お互い複雑に絡み合っているので、単体で取り出してくるのが難しいというのは分かりますが、それでももっと焦点を絞るでしょう。最後の結論を「やはり相談できる友人が云々」ということにするのなら、友人ネットワークについてだけやればいいのに。「現実なんて簡単に調べられるぜ」的なテレビ局のスタンスには、ガッカリしました。

*1:54%/46%だったかも

コミュニケーション能力

昨日の讀賣新聞で、石田衣良さんの京都女子大(?)におけるパネルディスカッションの様子が紹介されていて、石田さんはこんなことを言っていました。いわく、今の時代に必要なのはコミュニケーション能力。そのために女学生諸君はお気に入りの作家を見つけ、ステキな恋愛をして欲しい。それが他者の心を理解する能力を磨くことになる。「いかにも彼の講演を聞きに来る女学生が好みそうな結論だな」と思いました。ちゃんちゃん。
猫も杓子もコミュニケーション能力ですが、コミュニケーション能力っていったい何なんでしょう?それは気さくな性格に由来するようなものなのか、絶妙なタイミングで強力なひとことを放つ「板尾的」なものなのか、「人をコントロールするなんて簡単さ」というマーケター的能力なのか。あるいは、「そのままの君で良いんだよ」、「君の人生には意味がある」というヒーラー的能力なのか。「おはようございます」、「ありがとうございます」というもっと基本的なレベルの話なのか。どのレベルで語っているのかが、いまいちはっきりしないんですよね。しかも、考えなければならないのは、言葉だけの問題ではなく、体型、服装、髪型、仕草、表情、(他にも匂いとか)全てに気を配らなければいけないわけで、ホント大変やな、という感じですね。費用対効果を考えると、「そこまでしてコミュニケートした先に何がある?」という怠け心が首を擡げてくる。もしかすると、それが一番の問題なのかも知れません。

Define me! Define me! Love me! I need love!的な時代

「〇型自分の説明書」というシリーズ本が売れているみたいですね。血液型による人格類型論がいつ頃出てきたのか知りませんが、こういう言説が出てくると、それに対する反応として「科学的根拠はない」と一笑に付す人、「科学的根拠はないが、暗示効果は無視できない」と比較的真面目に受け取る人、「へぇ〜そうなんだぁ」とベタに受け取る人、「ふ〜ん。なるほどね」とネタとして楽しむ人、様々だと思います。「私を定義して!」みたいな欲望は、結構普遍的なものなのかも知れませんね。その欲望を満たす機能を果たすのが、あるいは精神分析であり、あるいは脳科学であり、スピリチュアルであり、血液型なのかも知れません。室井佑月さんは血液型診断について、ネタとして楽しめば良いとしたうえで、こんなことを書いてましたよ。「私の周りにはなぜかB型の人が多いんです。父親とか、息子とか・・・(以下略)」。僕自身としては、血液型診断についてどうこう言う前に、メンデルの業績に敬意を払った方がいいと思いました。ちゃんちゃん。

宮台さんの反応

 『現実でも一人。ネットでも一人』『みんな俺を避けている』などの書き込みから見ると、加藤容疑者は社会に居場所が見つけられない不満を強く感じている。背景には若者文化の変質があろう。

 かつては人づきあいが苦手な若者たちの『もう一つの居場所』が若者文化の中にあり、秋葉原もその象徴だった。今はオタク文化もネット文化もまったり戲れる場所。被害者の一部がそうだったように秋葉原も今は友達と連れ立っていく所だ。友達がいない者には秋葉原でさえ居場所にならない。

 他方『県内トップの進学校に入って、あとはずっとピリ 高校出てから8年、負けっぱなしの人生』『親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ』などの書き込みには、別の背景も見出せる。社会的序列について「勘違い」を与える成育環境だ。

今は新卒一括採用ゲームでの勝利が人材価値を保証しない。叩き上げで獲得した専門性が人材価値をもたらす時代だ。なのに教育界や親がいまだに『いい学校・いい会社・いい人生』である。教育界はこの「勘違い」で飯を食う利害当事者だし、親はかつての常識から抜けられない。

 厳しい家庭で優等生として孤独に過ごした加藤容疑者は、進学上の「敗北」を過大に受けとって「挫折」した。成績よりも友達がいないことを心配しない大人たちのダメさに問題を感じる。ネットの影響だのPCゲームの影響だのという議論は笑止だ。


格差社会がもたらす絶望」云々の議論は完全な出鱈目じゃないが、周辺要因です。
最大の問題は社会的包摂性で、これは格差に還元できない社会的相続財産の問題です。

そのことをサブカルチャーの変質、アキバの変質、労働市場の変質を挙げて主張したかったのですが……分量的に仕方ありません。

なお、僕が想定していた見出しは「孤独な勘違いの背景こそ問題」です。
http://www.miyadai.com/6月15日の記事より

秋葉原通り魔事件はもういい」といいながら、きっちり人々の反応をフォローしている僕ですが、宮台さんが少し遅めの反応を示したみたいです。たしか、『波状言論S改』の鼎談か何かで、「脱社会的存在は遺棄されても仕方がない」というようなことをおっしゃっていたので、もう宮台さん的にはこの手の話はもういいのかな、と思っていたのですが、(自発的かどうかはともかく)一応反応はされたみたいです。有名税という奴かも知れませんけど。

ドラマ『ラスト・フレンズ』について

12日の放送で視聴率が20%を超えた『ラスト・フレンズ』ですが、僕も興味深く拝見しております。散漫なエントリになるとは思うのですが、僕が思うところを少し書いてみたいと思います。まず、僕が面白いと思うのは、及川宗佑という登場人物の描かれ方ですね。これまでDVやストーカーの加害者というのは、独占欲が強く、猟奇的で、勘違いした変態野郎、という風に、あらかじめ無害化されたキャラクターとして、視聴者が共感するのが難しいキャラクターとして描かれることが多かったように思います。及川宗佑も表面上はそのように描かれていますが、彼の子供に対する接し方からは、彼の不幸な少年時代が暗示されているし、幸せそうに笑うシェアハウスの5人が写った写真を見て涙するシーンでは、そういった関係性から自分は(あらかじめ)除外されている、といった悲しみの感覚が表現されています。こういう描写は今までなかったと思うのです。
少し話は逸れますが、D/Gがかの有名なカフカ論で、こんな話をしていました。曰く、プルーストが手紙を書くのは、人との距離を限りなく(もうそれは相手が見えなくなるくらいまで)近づけるためであり、一方、カフカが手紙を書くのは、人との距離を絶えず保ち続けるためである、と。極端な話ですが、結局、人間関係における距離の取り方などは人それぞれである、ということでしょう。
人間関係における距離の取り方、ということで言えば、昔、「友達以上恋人未満」という言葉がありましたね。性愛に関連するものとして、友達から恋人へと至る数直線を想定し、『ラスト・フレンズ』に出てくる登場人物をマッピングすれば、瑠可は性別(あるいはGID)が障害となって、友達という点から動くことができず、タケルは姉との近親相姦によるトラウマ(→女性との身体的接触恐怖)が障害となって、友達以上恋人未満の間はある程度自由に行き来することができるけれども、恋人という点に至ることはできず、宗佑もおそらくは不幸な過去に起因する(と思われる)自身の性質が障害となって、恋人未満の領域に足を踏み入れることができない。人との距離の取り方、という問題に関して、三者三様の不自由を抱えている、というのが面白いところです。及川宗佑に関して言えば、「男なら身を引けよ」というエリの言葉を実践することは、「恋人未満の領域に移動する」ことを意味し、彼にはそれができないわけですから、自らを死に至らしめる、という結果になってしまうわけですね。
人との距離の取り方、ということに関しては、何らかの障害を感じている人も多いことでしょう。客観的に見れば、『ラスト・フレンズ』の登場人物のようにクリティカルな問題ではないのかも知れませんが、主観的には切実な問題であったりするわけで、そういった関連から、僕たちは彼らに共感するのだ、と思います。

秋葉原通り魔事件はもういい

たまたま手元に新聞がたくさんあったので、昨日は秋葉原通り魔事件についてシコシコまとめてましたけども、ネットの方がよっぽど詳しい情報を、楽に集められることがわかりました。僕がこの事件を、世間並みの関心を抱きながら追っていて思ったのは、加藤智大容疑者自身もさることながら、この事件に対する(識者と呼ばれる人々)を含めた多くの人々によるリアクションも含めて、「既視感」に満ち満ちている、ということです。サカキバラ事件以来、この手の犯罪に関する論点はもう出尽くした感がありますね。性的弱者、幼児的万能感、悪辣な労働環境、希望格差社会、報道の仕方の問題、秋葉原、自立できない若者、希薄化した人間関係、安全のための監視を求める人々(とその副作用を指摘する社会学者)、今まで散々見てきたことです。無論、是正されるべき問題は多いのでしょうが、それはこのような事件が起ころうが起こるまいが、問題としてあるのであって、この事件によって「社会の歪み」表面化した、とは到底言えないでしょう。そういった意味で、この事件は、自分としてはもういい、という感がありますね。新聞に載っているような分析を中和するようなネット上の記事を少し載せておきます。

少年犯罪データベースドア
2008-06-09 - 内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−
(追記)
掲示板の書き込み(詳細版−渋井哲也さんのブログより)
通り魔殺人 掲示板書き込み | てっちゃんの生きづらさオンライン@jugem

クローズアップ現代(スピリチュアルブームについて)のメモ

不安・孤独の受け皿としてのスピリチュアル
社会背景=競争激化、格差拡大
親・友達には相談できない
男女問わずニーズがある
今はコンサルタント的な役割を占い師やヒーラーが務めている
企業レベルでのヒーラーによるセミナーがある
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香山リカさんの分析)
30・40代=厳しい成果主義の中にいる、自己実現・自分らしさへのこだわりが強い
ヒーラーのやり方=まず肯定して、「問題はあなた以外にある」という物語を作ってくれる
同僚もライバル、地域社会も崩壊、空気を読まなければならない友人関係
現実的な欲望(金・出世)も否定しないヒーラー→現代社会との親和性
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悪徳スピリチュアル商法(書・10万5000円、水500cc・1600円/2ℓ・6200円)
不安を煽るやり方→途中でやめれないようにする
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香山リカさんの分析)
「〜すれば+」→「〜しなければ−」という組み立て
香山先生自身もヒーラーの役割を求める人もいる(easyな指針を求める人が多い)
落ち込んだときに励ましてもらうような使い方ならオッケーだが、「自分で考える」という前提ありき