宮台さんの反応

 『現実でも一人。ネットでも一人』『みんな俺を避けている』などの書き込みから見ると、加藤容疑者は社会に居場所が見つけられない不満を強く感じている。背景には若者文化の変質があろう。

 かつては人づきあいが苦手な若者たちの『もう一つの居場所』が若者文化の中にあり、秋葉原もその象徴だった。今はオタク文化もネット文化もまったり戲れる場所。被害者の一部がそうだったように秋葉原も今は友達と連れ立っていく所だ。友達がいない者には秋葉原でさえ居場所にならない。

 他方『県内トップの進学校に入って、あとはずっとピリ 高校出てから8年、負けっぱなしの人生』『親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ』などの書き込みには、別の背景も見出せる。社会的序列について「勘違い」を与える成育環境だ。

今は新卒一括採用ゲームでの勝利が人材価値を保証しない。叩き上げで獲得した専門性が人材価値をもたらす時代だ。なのに教育界や親がいまだに『いい学校・いい会社・いい人生』である。教育界はこの「勘違い」で飯を食う利害当事者だし、親はかつての常識から抜けられない。

 厳しい家庭で優等生として孤独に過ごした加藤容疑者は、進学上の「敗北」を過大に受けとって「挫折」した。成績よりも友達がいないことを心配しない大人たちのダメさに問題を感じる。ネットの影響だのPCゲームの影響だのという議論は笑止だ。


格差社会がもたらす絶望」云々の議論は完全な出鱈目じゃないが、周辺要因です。
最大の問題は社会的包摂性で、これは格差に還元できない社会的相続財産の問題です。

そのことをサブカルチャーの変質、アキバの変質、労働市場の変質を挙げて主張したかったのですが……分量的に仕方ありません。

なお、僕が想定していた見出しは「孤独な勘違いの背景こそ問題」です。
http://www.miyadai.com/6月15日の記事より

秋葉原通り魔事件はもういい」といいながら、きっちり人々の反応をフォローしている僕ですが、宮台さんが少し遅めの反応を示したみたいです。たしか、『波状言論S改』の鼎談か何かで、「脱社会的存在は遺棄されても仕方がない」というようなことをおっしゃっていたので、もう宮台さん的にはこの手の話はもういいのかな、と思っていたのですが、(自発的かどうかはともかく)一応反応はされたみたいです。有名税という奴かも知れませんけど。