ドラマ『ラスト・フレンズ』について

12日の放送で視聴率が20%を超えた『ラスト・フレンズ』ですが、僕も興味深く拝見しております。散漫なエントリになるとは思うのですが、僕が思うところを少し書いてみたいと思います。まず、僕が面白いと思うのは、及川宗佑という登場人物の描かれ方ですね。これまでDVやストーカーの加害者というのは、独占欲が強く、猟奇的で、勘違いした変態野郎、という風に、あらかじめ無害化されたキャラクターとして、視聴者が共感するのが難しいキャラクターとして描かれることが多かったように思います。及川宗佑も表面上はそのように描かれていますが、彼の子供に対する接し方からは、彼の不幸な少年時代が暗示されているし、幸せそうに笑うシェアハウスの5人が写った写真を見て涙するシーンでは、そういった関係性から自分は(あらかじめ)除外されている、といった悲しみの感覚が表現されています。こういう描写は今までなかったと思うのです。
少し話は逸れますが、D/Gがかの有名なカフカ論で、こんな話をしていました。曰く、プルーストが手紙を書くのは、人との距離を限りなく(もうそれは相手が見えなくなるくらいまで)近づけるためであり、一方、カフカが手紙を書くのは、人との距離を絶えず保ち続けるためである、と。極端な話ですが、結局、人間関係における距離の取り方などは人それぞれである、ということでしょう。
人間関係における距離の取り方、ということで言えば、昔、「友達以上恋人未満」という言葉がありましたね。性愛に関連するものとして、友達から恋人へと至る数直線を想定し、『ラスト・フレンズ』に出てくる登場人物をマッピングすれば、瑠可は性別(あるいはGID)が障害となって、友達という点から動くことができず、タケルは姉との近親相姦によるトラウマ(→女性との身体的接触恐怖)が障害となって、友達以上恋人未満の間はある程度自由に行き来することができるけれども、恋人という点に至ることはできず、宗佑もおそらくは不幸な過去に起因する(と思われる)自身の性質が障害となって、恋人未満の領域に足を踏み入れることができない。人との距離の取り方、という問題に関して、三者三様の不自由を抱えている、というのが面白いところです。及川宗佑に関して言えば、「男なら身を引けよ」というエリの言葉を実践することは、「恋人未満の領域に移動する」ことを意味し、彼にはそれができないわけですから、自らを死に至らしめる、という結果になってしまうわけですね。
人との距離の取り方、ということに関しては、何らかの障害を感じている人も多いことでしょう。客観的に見れば、『ラスト・フレンズ』の登場人物のようにクリティカルな問題ではないのかも知れませんが、主観的には切実な問題であったりするわけで、そういった関連から、僕たちは彼らに共感するのだ、と思います。