浅野いにお『おやすみプンプン』(3)

峯田さんの帯評にインスパイアされて、少し書きたいと思います。峯田さんは「このマンガは子供の視点から描かれたマンガで・・・」ということを書かれていますが、僕も『おやすみプンプン(以下プンプン)』については、パースペクティヴに対する注意が必要だ、という風に感じていました。というのは、やはり、初めて読んだときに、(誰もがそうでしょうが)プンプンの風貌が気に掛かったからです。『プンプン』が、subjective point of view−仮に主観視点としておきましょう−で描かれており、なおかつ彼だけがあの風貌なら、別段驚くには値しないんですね。なぜなら、自分だけが特別に思える(あるいは異質に見える)、といった感受性は、プンプンくらいの世代にはありうる心性だからです。思春期的感受性の投影があの風貌として現れている、とでも言えば済む話なんですね。
しかしながら、プンプンの両親や叔父である小野寺雄一もあの風貌ですから、上記のような話では済まなくなるわけで、どういうことやねん的な反応をしてしまうわけです。中条省平さんが『マンガノゲンバ』で、「プン山家というのは、悲惨な家庭だが、あのプンプンの風貌によって読者は少し距離を置くことができ、救われている」というデザイン論的なことをおっしゃってまして、僕は「なるほど」と思ったんですけども、そういうことを考えると、物語内部にのみ注目して語るべき作品ではないのかも知れませんね。話が逸れました。パースペクティヴの話に戻しますと、僕はこの作品はomnipotent/almighty point of view−日本語で言えば全能視点ですか−を採用しているように思います。えらそうな書き方をしていますが、今日びの話、ほとんどの小説・マンガは全能視点で描かれているわけです。ただ、誰も意識せずにそうしているだけで、やはりその他のパースペクティヴを採用すると、不自由になりますからね。
だとすれば、『プンプン』を語る際に、パースペクティヴに関する講釈を垂れる必要はないじゃないか、という話になりそうですが、それでもやはり、僕が『プンプン』におけるパースペクティヴを問題視する必要があると感じるのは、このマンガにおいては、パースペクティヴの変換が意識的になされていると感じるからで、そう思わせるのはやはりプンプンと清水君の存在が大きいですね。プンプンに見える神様は他の人には(おそらく)見えず、清水君に見えるうんこの神様もやはり他の人には見えない。「俺が見ている夕日の赤さはお前の赤さと同じか」という問題がありますが、このマンガにおいては「違う」ということを読者に再認識させるというステップを踏んでいます。無意識に全能視点を採用しても、こうはならないんですね。「俺が見ている夕日の赤もお前の見ている夕日の赤と同じだ」ということになりがちです。そういった意味で『プンプン』においてはパースペクティヴの問題が重要であると感じるのです。
そのことに関連して、内的独白の問題を考えると、このマンガにおいて内的独白をする特権的なポジションにあるのは、プンプンと小野寺雄一叔父さんです。だからどうやねん、という話ではありますが、・・・ふきだしのような内的独白は他のキャラクターにはありません。これも意識的になされているのだと思います。
あと少し、文体の話をすると、「プンプンは・・・だと思いました」というような童話的な語りは、ジョイスの『若い芸術家の肖像』を思わせますね。パースペクティヴや内的独白についてはフォークナーの『響きと怒り』を思わせます。僕は、そういった意味で、『プンプン』は「モダニズム」的なマンガだと思います。ただ、そういった読み方をしているだけかもしれませんが。画とか時制に関しては、しんどいので自重いたしますが、画に関して言うと、文体に近いものがあるのではないか、と勝手に思ってます。
最後に第3巻に関する感想を書くと、「男の限界」という言葉が頭に過ぎりました。ダメ男としては、沁みる巻でしたね。

おやすみプンプン 3 (ヤングサンデーコミックス)

おやすみプンプン 3 (ヤングサンデーコミックス)