ドストエフスキーという小さな産業

斎藤某、というのはひどいね。コミュニケーション力、退屈力、コメント力、段取り力、発想力、教育力、読書力、眼力etc. 力々のオンパレードですわ。そういった全ての力は、ドストエフスキーゲーテフロイト、そういった人たちの著作を読み、三色ボールペンで線を引いたり、音読したり、あるいは散歩したり、呼吸法を学んだりすることから獲得される、ということ。彼、あるいは彼の取り巻き(編集者とか)のマーケティングセンスには脱帽いたしますが、端的にいえば、「酷い」のひとことしかない。
彼の言っていることに科学的な根拠がないわけではありません。呼吸法を変えたり、ヨガをしたりすれば、脳内のドーパミン分泌量が増え、幸福感を得られることもありますし、ものを書くのに行き詰ったときは散歩が良い、というようなことは、福田和也なり茂木健一郎なりも言っていることですからね。それなりの根拠があるのでしょう。まぁ、身体性みたいなものに着目したのは、オリジナルではないにせよ、評価できるのではないでしょうか。まぁでも、酷いよな。一行で書けることを一冊の本にしちゃうわけだから。それは何力や?(笑)
そして今回は『ドストエフスキー人間力』ですか。そして、亀山先生が帯評を書いていると。亀山先生のような人が斎藤某を評価してはいけないのではないでしょうかねぇ。ベストセラー作家である斎藤某のドスト本を売って、さらにドストに注目を集め、自分の著作を売ろうとしているのなら話は分かりますが、「マジで?」という感が拭えませんね。
というようなことを考えていると昨日の讀賣新聞夕刊に亀山先生の講演の記事が。

カラマーゾフの兄弟」の方は、父親殺しの物語です。酒と金と女という欲望にまみれた父親を、兄弟の誰が殺したのかというミステリー。数年前まで、この小説は人間の知性の最高峰として知られていました。最近テーマが父親殺しらしい、さらにミステリーらしいという情報が流通して、今回のベストセラー化につながったのでしょう。
ただ、「父親殺し」という言葉から昔の私が受けたタブーを犯す感覚は、ミステリーという言葉でジャンル分けすることによって失われてしまった。そのことには懸念を覚えます。(6月3日讀賣新聞夕刊・8面)

結局、これは自分のドスト論が的を射たものであった、と言っているに過ぎません。亀山先生のドスト論のコアは、ドストエフスキーは幼き頃に、シラー作品の中にある「父親殺し」のモティーフに震撼し、それを発展させ、「カラマーゾフの兄弟」を書いた、みたいな点にあるのですから。まぁ別に、誰がドストを礼賛しても良いんだけど、亀山先生にはピョートル・ステパノヴィチみたいなことをして欲しくないなぁ、とそう思った次第です。