鈴木先生について・・・語る

蓮實重彦さんが、インタビューの中で、「反復する顔、しない顔」というようなことをおっしゃっていて、映画の中には覚えておかなければならない顔とそうでない顔があるらしいんですね。詳しくはflowerwild.net - 蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.1を参照していただきたいのですが、さすがやなぁ、と。こういうことは映画を相当な緊張感を持って観続けている人間にしか、語れないことですから。さらっと語っているにしては凄すぎる内容だと思うのですが、そのことを踏まえて考えると『鈴木先生』というマンガは傑作なんやな、と思うわけであります。「リアルじゃない」とか「クセがある」とか、そういうことを言って批判している人の気が知れないですねぇ。趣味の問題なんで、あまり言いたくありませんけど。
先生のキャラが強いんで鈴木先生その人ばかりが注目されがちですけど、先生だけじゃなくて生徒の描き方もすごいと思います。まさに『鈴木先生』に出てくる生徒は「反復する顔」の持ち主であって、メインとして話に絡んでくる云々ではなく、どんな登場の仕方であれ「顔」(≒固有名)を持っている。その生徒がそこに配置されているには、それなりの意味と役割があって、読み手はそれをきっちりと認識しておくことが要求されているわけです。そういう意味ではしんどいマンガかも知れませんが、巻を追うごとに(読み手が各登場人物の像を把握していくにつれて)面白くなっていく。
さらに、人間関係がある程度流動的である、というのもすごいと思います。『鈴木先生』の人物相関図を描くとしたら、エピソード毎に刷新していかなくてはならないほどで、これまた難儀なのですが、そういう変化を追っていくのも楽しいんですよ。例えば生徒同士の喧嘩の話があったとすると、今までの学園モノなら、たいてい「仲直り」が着陸地点となり、最終的に人物相関図が変更されることはないのですが、武富健治はそんな安易な場所に着陸地点を設定しないわけです。どんどん人物相関図は変わっていくし、それはポジティヴな変化もあれば、ネガティヴな変化もある。まぁ、「@恋の嵐」と「@恋の終わり」のエピソードにおいては友達(小川蘇美)と仲直りできる人物(堀の内)と仲直りし損ねる人物(樺山あきら)の対比が明示されるのが象徴的ですねどね。小川周辺に限らず、河辺周辺でも、神田マリ周辺でも、そういった変化はある。そういう変化はマンガの在り方を変える、とは言わないまでも、豊かにすると思うんです。
他にも面白い部分は山程あります。擬音も面白いですし、時々あるモノローグによるクサい締め方も面白い。もし仮に、お金を払ってでも人に読ませたいマンガがあるとすれば、僕は真っ先に『鈴木先生』を挙げるでしょう(無論、読んだるから金くれ、と言われても払いませんが)。
ちなみに僕が好きな女子生徒は中村加奈です。中村が好きな男性読者はかなり多いと思います。中学男子的な目線から見れば、中村は女子と男子との間にある絶対的な差異を思い知らされるような大人びた存在ですが、やっぱり大人の目線では、無邪気さもあるし、限界もあります。でも本質的には優しいし、感動的な反省能力もある(鈴木先生談)。中学時代の僕は、きっと中村のようなクラスメイトに恋をしたことでしょう。「@教育的指導2その5」の紺野は、まさに中学時代の僕だったんだと思います。