種村季弘『食物漫遊記』

漫遊記シリーズで唯一未読であった『食物漫遊記』を読んだ。やはりというべきか、実に面白い。種村さんは、その博覧強記ぶりで知られているが、その知識の量や内容のみならず、使い方もが個性的で面白い。彼の本を読むと、こんなハードな知識をこんなソフトな場面で使うか〜と驚かされることがしばしばである。種村さんには「悦ばしき知識」という言葉がふさわしい。使えるか使えないか、批判できるかできないか、という低い見地から彼は本を読んでいないのだろう。おそらく、彼にある見地が想定できるとすれば、面白いか面白くないか、というものだと思う。そして、知識が積み重なれば重なるほど、知識は驚くべき結合を見せ、さらに面白いと思えるものが増えていく。まぁ、知識を積み重ねるという行為としては理想的なあり方だと思う。
『食物漫遊記』に話を戻すと、面白い話はいくつもあるのだが、終章の「家の中のロビンソン・クルーソー」などはやはり笑ってしまう。ある日、種村氏は天変地異に備えて、ロビンソン・クルーソーのようなサバイバル生活を始める。無論、トイレと水道は既存設備のものを使うというご都合主義を見ればわかるように、本気ではない。クルーソーのように、食物を増やすために何かをすることもない。はじめに準備した食物が尽きるまで、サバイバル生活を続けるだけである。そして彼がすることと言えば、食物に関する書物を読み漁ることだ。本を読みながら、檀一雄と自分とを比較し、母親を亡くした年齢と食物への執着度の関連を述べたかと思えば、忍者の携帯食や宇宙食にまで思いを馳せ、本を読んでも食物のことを理解できなかった、という結論に至ったかと思えば、「いまこそ実践において認識の限界を踏破せざるべからず」とのたまい、ご自身の連れ合いに向って「今日の晩飯何?」と何食わぬ顔で聞く。こういうのが、擬古文というか漢文の書き下し文のような文体で書かれるからたまらない。
漫遊記シリーズで言えば、僕は『書物漫遊記』が一番好きなのだが、この『食物漫遊記』もそれに劣らず面白い。そして、読書の楽しみ方はひとつではないということを再認識させられる。小説を食物のみに注目して読み進めていっても良いのだという風に。そして食物は、書物であっても化け物であっても、一向に構わない、という風に。