理由なき残酷性−ニコライ・スタヴローギン

年齢を重ねるにつれて、いわゆる正義のヒーローみたいなものには、ほとんど心が惹かれることがなくなってきました。発言を聞いていても「そんなことわかってるよ」と思ってしまうんですね。しかしながら、アンチヒーローは好きで、最近では夜〇月やルルー〇ュは好きです。ただ、月やルルー〇ュがいくら残酷性を発揮しようと、それが個人的、独善的なものであるにせよ、ヒューマニズムに由来するものである以上は、スタヴローギンの悪魔的魅力には勝てない、と思ってしまうわけなんです。
ドストエフスキーの『悪霊』と言えば、ニーチェ(『ツァラトゥストラはかく語りき』)やゴダール(『中国女』、『アワーミュージック』)に影響を与えたキリーロフが有名ですが、キリーロフにはロジックがありますからね。彼の思想(自らを死に至らしめることによって、神を乗り越えようとする人神思想)がキリスト教社会において、いくら冒涜的に見えようと、ロジックは一貫しており、それゆえ理解可能なわけですから、別段、恐るるには値しないわけです。彼自身、物語内部においては無害な人間でありますしね。
しかしながら、スタヴローギンには一貫したロジックなど、ほとんど見当たらない。彼には不快感や憂鬱、といった気分があるだけです。社会的な常識は弁えていますが、倫理性・道徳性などは屁とも思っていない。キリーロフが神を乗り越えるには、行為(=自死)が必要ですが、スタヴローギンにそんなものは必要ない。もともと彼には、神なんて存在しないわけですからね。神を冒涜するのが彼の目的じゃない。
スタヴローギンが醜男であり、知性もなく、人を惹きつけるような魅力がないなら、「あいつはキ〇ガイだ。関わらないほうが良い」で済みますが、類稀なる美貌を持ち、知力・体力、ともに人並み外れたものを持っているわけですから、ご婦人連中が放っておくわけがないし、彼のカリスマを利用しようとする輩も出てくる(ピョートル・ステパノヴィチ)。彼の残酷性とそれが引き起こす事件や噂も、彼の魅力を増すことになるわけです。恐ろしいですねぇ。
怨念、打算性、マキャベリズムみたいなものは、実害を被る危険性は常にありますが、あまり恐いとは思いません。世俗的な価値をベースに置いてますし、もし刺されたとしても、命さえあれば自分の中で論理的解決ができますからね。それを許さないスタヴローギンはやはり恐ろしいわけです。