ドストエフスキーパラレル

コンスタンチン・モチューリスキーの『評伝ドストエフスキー』を読んでいたら、興味深い部分があった。ドストエフスキーが『虐げられ辱められた人々』を雑誌に掲載した後の批評家達の反応の箇所。

ドブロリューボフ自身、この作品を「美的批評の対象にもなりえない」と見なし、グリゴーリエフは、この主人公たちを、人形、マネキン、三文野郎と呼んだ。(p. 217)

グリゴーリエフ評は『新世紀エヴァンゲリオン』に対する富野由悠季評(『エヴァが、僕みたいな年代とか、僕みたいな感覚を持つ人間から見た時に、あのキャラクターは生きてるキャラクターではない、と感じます。ドラマは、生気ある人によって描かれるはずなのに、その根本を無視している。かくも腺病質なキャラクターとメカニックで、ドラマらしいものを描けるというのは、頭の中で考えていることだけを描いていることで、短絡的に言えば、電脳的だと』wikiより転載)に似てますねぇ。しかし、

矛盾の中に真実のモデルを見いだすことに慣れ親しんだ時代においてのみ、カリカチュアは、人物そのものよりもいっそう人物に似て見えるのである。(p. 284)

とジョルジュ・アガンベンが『スタンツェ−西洋文化における言葉とイメージ』(ちくま学芸文庫)で言っているように、写実的なものよりも、カリカチュアライズされたものの方が、真に迫っている、ということは往々にしてあるわけで、今、純文学が「現代の人間」を描いているなんて、誰も思わないでしょう。まぁ、最近の社会学者なり、批評家たちが、いわゆる文壇的なものに関しては語らず、ラノベやらケータイ小説やら、マンガやらについて語りたがるのもむべなるかな、と思います。現代文学を論じても、あまり意味ないんですよね・・・たぶん。