評価の次元−ジジェクと蓮實重彦さんについて

今、表象文化論の講義でジジェクの映画論を読んでいるのですが、非常に面白いですねぇ。マン・ツー・マンの講義なので先生とゲラゲラ笑いながら読んでおります。とはいえ、映画学をやっている人々やその専門家からは、ジジェクの映画論は忌み嫌われているようで。有名どころで言えば、蓮實重彦さんなどは、ジジェクとそのエピゴーネンをバカ扱いしていますし、奴らの映画論は貧困だと、そういう意味のことをおっしゃってます。
僕はジジェクに好意的ですが、蓮實さんをはじめとするアンチ-ジジェク派の気持ちは分からないわけではありません。というのは、ジジェクの映画論の目的は、映画それ自体を論じること以外のところにあるからです。まぁ、ラカンの説明とかその他諸々のことです。そういったジジェクの映画への態度は、シネフィルやそれを自称する人々にとっては、映画を馬鹿にしているように見えるのかも知れません。
だがしかし、と僕は思います。ジジェクが言及している映画のある場面を、実際に観てみると、驚嘆させられることが少なくありません。テキトーに映画を観ていれば、気にも留めないような場面が多いからです。そして、「なるほど〜、そっから発想を広げていくのか」と感嘆します。映画をしっかり観なくては、という気にもさせられます。つまり、ジジェクの映画論は(少なくとも僕にとっては)inspiringかつmotiveなものである、ということです。
ではアンチ-ジジェク派の映画論はどうでしょうか。蓮實重彦さんがおっしゃっているように、映画批評にはキャッチーなコピーがつきものです。キャッチコピーがキャッチコピーである所以は、その説得力にあると思います。実際、蓮實さんの映画論には説得力がありますね。まぁ、「ゴダールの言っていることを信用するな。だからといって、ゴダールが嘘を言っていると思うな」みたいなレトリックは、何だかよく分かりませんが、キャッチーだし、説得力があります。
ただ、蓮實さんの映画批評が良くできすぎているがゆえに、その批評が蓮實さんのエピゴーネンを大量生産する、という結果も生みますね。エピゴーネン嫌いの蓮實さんは、そのことに眉を顰めるでしょうが、これは仕方がないことだと思います。実際、僕の映画観も、蓮實さんから多大なる影響を受けていますし、プロとして活動されている方でも、そういう人は多いでしょう。
だからこそ、僕はジジェクを評価するのです。ジジェクの映画論には胡散臭い部分がたくさんあり、蓮實さんの映画批評よりは批判的な読み方をされる可能性が高いですからね。蓮實重彦は〜と言っている、という言説のあり方よりも、ジジェクは〜と言っているが・・・、という言説のあり方の方が、生産性は高いのではないか、ということです。無論、それは批評家としての評価とは関係ありませんよ。あくまでも読み手との関係の問題として、こういう評価の次元もある、ということです。