ウルリヒ・フュレボルン「個人と「精神的世界」−カフカの長編小説をめぐって」、クロード・ダヴィッド編、円子修平、須永恒雄、田ノ岡弘子、岡部仁訳『カフカ=コロキウム』所収

<比喩の生/現実の生>
カフカは自分の想念に浮かぶ詩的形象世界を表すのに、言語はあまりに不十分であると考えていた。

<寓話>
寓話=実践的な意図を持つたとえ話*1

カフカの寓話>
心理学的なパースペクティヴィズム(遠近法主義?)を用いて描写された人物達と、彼らに相対する比喩の世界との間には、絶えず変化していく関係がみられる。

<現実世界/比喩世界>
「判決」ベンデマンが生きる世界/父の生きる世界
流刑地にて」探検家が生きる世界/流刑地
『審判』および『城』は、比喩的な世界を抜け出そうとする物語。

カフカ作品における個人>
デカルト的個人*2ではない。

フュルボルン自身の明確な定義はない。

カフカ作品における精神的世界>
カフカ作品においては、精神的世界の中に精神的ならざる世界が弁証法的に揚棄*3される。

カフカの長編小説における「精神的なもの」>
精神的とはつねにまた普遍的なものであり、それは孤立した個人に対立する概念である。

カフカの長編小説『失踪者』>
ディケンズの『デイヴィッド・カッパーフィールド』を下敷きにして書いているが、『失踪者』ははじめから、リアリズム小説ではない。

<『失踪者』における「オクラホマ野外劇場」*4
高い台でトランペットを吹く天使達や人けのない競技場などなどで、この世界を形作っていること
→初期のシュールレアリズム、イタリアの形而上絵画との類似がみられる。

<『審判』における死>
ヨーゼフ・Kはゲオルグ・ベンデマンのように、判決を自らの手で執行することはできない。しかし、『審判』の補遺として描かれた短編「夢」においては、ヨーゼフ・Kはベンデマン同様、自らを死に至らしめることができる。
→長編小説には不純物が混ざるので、自由意志の介入する余地はないが、短編にはあるから。

<ヨーゼフ・Kの人間関係>
経験的領域の人物(グルーバッハ夫人、ビュルストナー嬢など)/非経験的領域の人物(監視人)
両者が同じ舞台に、時を同じくして存在できる。

<ヨーゼフ・Kの背反性>
超現実的な「逮捕」を経験的世界の事実として、受け入れている。ヨーゼフは「分別」によって、その状況から逃れようとするが、その「分別」とは、経験的世界における「打算的な」分別であり、人であれ、何であれ、出会うもの全てを目的到達の手段として見做す、という類のものである。

カフカ文学における橋*5
経験的世界→橋→比喩的世界
「判決」『審判』において、主人公は最後に橋を渡るが、『城』においては冒頭で渡る。

<Kと城の相互作用>
城はKの見ている所、聞いている所で働きかけ、応答する。しかしながら、それらは多義的で理解不能なものである。にも関わらず、Kはそれらに判断を下していく。

<『城』におけるアポリア
共同体がつねに精神的世界であれば、個人の手立てをもってしては「断じて」それを獲得する、あるいは成就することはできない。それゆえに我々は、個人としては、いつか再び共同体に生きるという希望を奪われる。

キルケゴールの個人とカフカの個人>
キルケゴールの個人とは、非歴史的な、ある意味超人的な存在であるが、カフカの個人とは、あくまでも歴史の仲介を受けた人物である。

カフカの長編小説とカフカ
寓話化の度合い=『失踪者』<『審判』<『城』
→20世紀初頭の社会的経済的現実への批判を徹底化していった。

<感想>
難しい。経験的世界と現実世界、比喩的世界と精神的世界などが、明確に区別されていない、ということもあって、かなりわかりにくい内容のものとなっている。しかし、ファインディングの次元では面白いと思われる箇所もいくつかあった。「オクラホマ野外劇場」の描写と初期シュールレアリズムとの類似点を指摘したあたりが、そうである。ただ、寓話に関して言うと、フュルボルンは「寓話=実践的なたとえ話」という風に定義しているが、カフカの寓話に関しては、「教訓を引き出すという類のものではない」という意見もある。そういう側面に注目するよりは、身体論などの観点から、読んでいったほうが、面白いのではないかと思う。

*1:つねに「われわれにしたがえ」という命令形にするから

*2:孤立した状況にある近代の個人

*3:揚棄止揚ヘーゲルの用語。弁証法的発展では、事象は低い段階の否定を通じて高い段階へ進むが、高い段階のうちに低い段階の実質が保存されること。矛盾する諸契機の統合的発展。

*4:この章は、『失踪者』を断念してから2年後に書かれた。

*5:短編「橋」については、別に検討する必要がある。