「非モテ」のループ構造

「理系のための恋愛論」や「モテ非モテドットコム」のコラムを読んでいると、ムカムカして、パソコンモニタを叩き割りたくなる私は、間違いなく「非モテ」なのだが、私自身、「モテ非モテ」は、好意の表現を含めた、諸々の事柄を「めんどくさい」と思うか思わないかが、分岐点になっていると思う。つまり、めんどくさいと思う奴は「非モテ」だし、思わない奴は「モテ」だと言うことだ。
もし、この分岐点が信頼のおけるものだとすると、仮に、「非モテ」が、自身の努力によって、「モテ」の領域に侵入できたとしても、もともと「モテ」ている人間ほど、幸せになれない、ということになる。というのは、「非モテ」は好意の表現をめんどくさいと思っているので、落胆したり、幻滅を感じたりする度合いも相対的に高く、また、「非モテ」は「モテ」よりも好意の表現が不自然(あるいは不適切)であり、それゆえに歩留まりも悪くなるからだ。「努力して得られた結果がこれかよ」という期待外れを回避するために、「非モテ」はますます努力しなくなり、「非モテ」に磨きがかかっていく。「非モテ」上級者になると、付き合っている異性がいなくても、居心地の悪さや劣等感を感じることがなくなり、「非モテ」師範クラスともなると、「恋愛ってなんですか」という感じになる。
おそらく「非モテ」には、こういうループ構造があるわけだが、「モテ」の場合にも同じことが言えるかどうかはわからない。「非モテ」が恋愛から退却すれば、「モテ」の恋愛機会がますます増える、というふうに考えられがちなのだが、男の「非モテ」もいれば女の「非モテ」もいるわけで、恋愛から退却する各性別「非モテ」の数によって、そのバランスは変わってくる。男「非モテ」の退却者数が、女「非モテ」の退却者数よりも多ければ、男「モテ」の恋愛機会はますます増える。女「非モテ」の退却者数が男「非モテ」の退却者数より多ければ、女「モテ」の恋愛機会はますます増える。「モテ」の構造は「非モテ」のそれほど、単純ではないのだ。