浅野いにお

今日は浅野いにおのマンガを読み直していた。僕はその存在をクイック・ジャパンの記事によって知ったのだが、それが浅野いにおのデビュー作である『素晴らしい世界(1)』が出版された直後と記憶しているから、2003年のことらしい。四年前、僕はクイック・ジャパンを読んでいたんだな。
当時の僕は大学の二回生で、勉強するわけでもなく、遊び呆けるわけでもなく、何となく過ごしていたんだろうと思う。それは院生になった今でも変わっていないが、学部生のときと違うのは、真面目に授業に出るようになったこと。やはり、院の授業はインタラクティヴで面白いし、留年するわけにはいかんからね。
まぁ、それはさておき、僕は浅野いにおのマンガを全部持っているのだが、だからといってファンを自称するつもりはない。もちろん、彼のマンガは、僕を惹きつける何かしらの要素があるのには違いないのだが、Amazonのレビューなどで、彼を酷評する人たちの気持ちがわからないわけではない。
例えば、雰囲気はあるが内容が伴っていない、という意見には少し頷けるところがある。もちろん、いくらでも反論することは可能だろうし、批評家であれば、キャッチーなキーワードを作り、彼の作品世界を語ることも、可能なのだろう。しかしながら、僕自身、それを言語化することができない。
ただ、ひとつ言えるのは、彼のマンガに出てくる登場人物は、宮台真司さんのキーワードを使えば、「脱社会的存在」であり、つまり、社会をうまく生きられない人たちであるということだ。そう考えると、『虹ヶ原ホログラフ』と『ソラニン』の対照が際立ってくる。
『虹ヶ原ホログラフ』において、登場人物は、お互いに交わり合いながらも、それが共同性へと発展することはないのだが、『ソラニン』の場合は、それが共同性へと発展している。ちなみに、『ひかりのまち』では、登場人物の共同性を築こうとする試みは、失敗を繰り返す。
『素晴らしい世界(2)』に対するあるAmazonのレビューでは、「夢や希望を自ら掴むことを億劫と感じ、努力しない人間へ送る最悪の馴れ合い漫画」という酷評が見られる。この評の背景には、「社会において、自己実現達成のために懸命に努力するのが尊い」という価値観が垣間見える。
しかしながら、1980年生まれの浅野いにおにとって、「社会において自己実現を達成する」という『働きマン』的価値観は、真実味のない夢物語にすぎないのではないか、と個人的には思う。世代論を持ち出すのは、いかがかと思うが、そういう「希望のなさ」こそが、彼の作品世界における特徴なのではないか。
文科系トークラジオLifeにおける「失われた10年〜Lost Generation?」ではないが、浅野いにおは失われた世代の表現者であり、そういった世代性が作品世界に反映していることは大いに考えられる。その世代の人たちが浅野いにおをどう読むのかが、非常に興味深い。

素晴らしい世界 (1) (サンデーGXコミックス)

素晴らしい世界 (1) (サンデーGXコミックス)

虹ヶ原 ホログラフ

虹ヶ原 ホログラフ

ソラニン 1 (ヤングサンデーコミックス)

ソラニン 1 (ヤングサンデーコミックス)

ソラニン 2 (2) (ヤングサンデーコミックス)

ソラニン 2 (2) (ヤングサンデーコミックス)

ひかりのまち (サンデーGXコミックス)

ひかりのまち (サンデーGXコミックス)