反省すること/反省を口にすること

最近、二人以上を死に至らしめた殺人犯の判決が立て続けに下りました。松村恭造と畠山鈴香ですね。前者には死刑判決が下り、後者には無期懲役が求刑されました。僕はこの事件に関して、はじめから興味を持っていたわけではありませんが、こういうのを見ると、やはり社会は底が抜けている(by宮台真司)という感じがしますねぇ。
まぁ、動機、殺害方法などを比較しても、正直、僕にはどちらが危険な人物か分からないです。人をメッタ刺しにすることと、橋の上から落っことすのと、どちらが残酷か、というのは人の取り方によるでしょう。動機に関しても、理解可能な動機と理解不能な動機があるというよりは、その犯人が口にした動機を理解する者と理解しない者がいるということではないか、などいろいろ疑問があります。包括的に、そういう判断を下すのが裁判官なんでしょうけどもね。
まぁ、松村が裁判において「ざま〜みろと思いました」とか挑発的な言動を繰り返す一方で、畠山は「御子様を奪ってしまって、本当に申し訳ありませんでした」と土下座して遺族に謝罪したらしいですから*1、そういうことから判断するとやはり今回のような判決になるのか・・・うーん、素人の目からは納得できないですねぇ。やはり実際に「反省すること」と「反省を口にすること」に境界線を求めることは無理なのかも知れません。それは山口県の母子殺害事件を見ていても思うことですけれどもね。どんな謝罪の言葉をもってしても、本村さんはそれを少年が反省しているとは認めないでしょう。
卑近な例を挙げれば、僕などは「目標を持つこと/目標を標榜すること」、「やる気があること/やる気を見せること」に境界線はないんやなぁ、と就活の時には思いますねぇ。「いやいや、百戦錬磨の面接官には全てお見通しだぜ〜」とおっしゃる方もいらっしゃるとは思いますが、そんなことないと思います。だから、就活とは人間的に判断されるというよりも、その手続きの取り方を判断されると考えるようにしております。随分話がずれましたが、結局、人間の内面を推し量るのは難しい、ということですね。

*1:実際に土下座したのは判決後で、求刑とは関係ないようです。