野村修「時代のなかのカフカ」(『カフカ解読−徹底討議「カフカ」シンポジウム』所収)

報告
ブレヒトカフカに対する評価>
資料価値のある叙事文学といえばヴェーデキントとカフカの作品くらいだ(1926)
カフカは、真剣さとは縁もゆかりもない文学環境のただなかの「ひとつの本当に真剣な現象」である(1928)
社会主義の作家は、ブルジョワ作家を無視せず、彼らの仕事を相互比較し、技法を学び取らねばならぬ。例えば内面的独白の技法をジョイスから、モンタージュの技法をドス・パソスから、異化の方法をカフカから(1930年代後半)
ブレヒトカフカを高く買っていたのみならず、技法的にも自分に近い作家であるとみなしていた

ブレヒトベンヤミンの意見交換>
1931、1934年
ベンヤミンブレヒトの見解をノートにまとめている

ブレヒトカフカ理解>
1)カフカのテーマ
カフカの唯一のテーマは<おどろき>である。あらゆる関係のなかにものすごい転移が進行し、何もかもがどこかズレてきていることを感覚しながら、新しい秩序なかへ自分を組み込めずにいる者がいだく<おどろき>だ
2)カフカのKとハシェクのシュヴァイクの対比
ハシェクのシュヴァイク=
何にも驚かない/じぶんを取り巻く現実の桁外れのところを吟味していく/状況の無法則性になじみすぎており、法則への期待をはなから捨ててかかっている/アナーキスト
カフカのK=
すべてにおどろき、全てをふしぎがる/いたるところで法則(あるいはその予感)につきあたる/新しい秩序の<法>を現出させるあらゆるもの、あらゆる人間をゆがんだ形でしか捉えられない/ボルシェヴィキ
3)カフカの限界あるいは曖昧さ
芸術家でも理性人(Der Besonnene)にも徹し切れていない
4)カフカの作品形式
理性人にふさわしい芸術形式が寓話だとすれば、カフカの寓話は、やがて造形意欲に負けて長編小説にまで生長してゆこうとする傾向を最初から内在させている
5)カフカの強みと弱み
カフカプラハで、もったいぶった文士やジャーナリストのつくる悪質な環境のなかにいた。このことは技巧のさえという強みを彼に与え、理性よりも文学に執着する人間にしたという弱みをも与えた(ブレヒトの中には、「理性人>芸術家」という考え方がある?
6)カフカの受容
カフカの物語から引き出せる実際的な様々な提案を明文化することが求められる。それらの提案はこんにちの人類にのしかかっている広汎な悪弊をただす方向で、探し求められなければならない
7)カフカファシスト
ファシストは現状況に面して「鉄の意志、不退転の意志」をふりかざし、ヒロイズムを投入するが、カフカは問いを取り出してくる(安堵によって現実逃避させるのではなく、不安の惹起によって現実に直面させる
<『訴訟』(=『審判』)の総体から読み取れること>―(1)
1)ヨーゼフ・Kに内在する罪の感覚、といって言いすぎなら「恥ずかしさ」が、かれに文字通り法外な「訴訟」を実在のものと思わせているのみならず、それの進行を根底に置いて受け入れさせていること
2)そしてその「恥ずかしさ」をもつにも関わらず、かれが大銀行の業務主任としての日常生活において、つねに自己中心的に振舞っていること
→ヨーゼフ・Kを近代社会のなかで働く知識人、つまり道具かされた啓蒙的理性の、ひとりの代表者として見ることができる
→ヨーゼフ・Kが感じる「恥ずかしさ」とは、第三世界や底辺の世界に迷い込んだ近代人が感じる「恥ずかしさ」と似ている(そしてそのことは普遍的経験である)
<(1)に関して湧き出てくる疑問>
1)ヨーゼフ・Kは−そして作者カフカは−そのような普遍的な経験を先取りしていたのか?
2)『訴訟』に現れる法外の裁判組織は、近代社会のなかにあっては抑圧される位置にある階級の運動が、幾重にも屈折し交錯しながら、ヨーゼフ・Kのなかに投影されたものなのだろうか?
→そう考えても良いと思われる要因はある。
Ex. )
・裁判所とその事務局が各所の貧民街に散在(というより遍在)している
・ヨーゼフ・Kが出会う被告の大部分が上流階級であること
2)の問いの発展型
労働者階級の運動のなかに萌芽として宿されている未来の秩序が、近代社会の現在を問い正す審理過程に姿を変えて、ヨーゼフ・Kの夢想のなかに現れてきている?
→この疑問には、「未来の秩序の投影であるにしてはあまりにも古臭いもの(異端審問や秘密警察による糾問を想起させる裁判制度etc)を含んでいる」という反問が予測される
<その反問に対して考慮すべきこと>
1)既成の体制のなかで生きる者はしばしば、新しいものを、不可解なものとして見るだけでなく、不潔なもの、堕落したものと見がちである、ということ
2)新しいものもまた、過渡期にあっては古いもの、崩れゆくものと手を切ることができず、後者の欠陥をわが身にしみつかせていることが、しばしばある、ということ
<『訴訟』とそのラストシーン対して>
『訴訟』の中には未来の秩序とは何なのか描かれていないが、「恥ずかしさ」がキー概念であるに違いない
‘’Wie ein Hund!’’ sagte er, es war, als sollte die Scham ihn uberleben.
<まるで犬だな>とかれはいった、あたかも、恥ずかしさだけは生き残らせようと願うかのように
カフカの自家引用−「父への手紙」において>
ぼくはあなたの前で自信をなくし、代りに無際限の罪の意識を手に入れました。 (この無際限さを思い返して、ぼくはあるときある人間について<彼は怖れる、かれの死後にまで恥ずかしさが生き残ることを>)
→ここでカフカは「恥ずかしさ」があとに残ることに対して否定的な態度を示している
<間違った引用が意味するもの>
『訴訟』を書いてから5年の間に、カフカの姿勢に基本的な姿勢の変化−恥ずかしさだけは生き残らせようという消極的姿勢から、じたばたすることで現状況での生きられなさを確認してみようという姿勢への変化−が起こったのではないか。
おそらく野村さんの考えでは、その変化が『訴訟』から『城』への変化に連なっている
<『訴訟』と『城』の対比>
『訴訟』=
ヨーゼフ・Kは作品を通して本質的に変化しない(受動的)/被告相互間には何の連帯もない/出てくる文書には内容がある(「掟の前」など)
『城』=
Kは「城」との対峙を通して変化してゆく(能動的)/Kと村人との間にかすかな協同が見られる/出てくる文書がナンセンス(クラムからKへの手紙など)
討論
<恥ずかしさと忘却に関して−ベンヤミンカフカ論>
1)「恥ずかしさ」は個人的なものであると同時に、社会的なものである
2)「恥ずかしさ」は忘却−何を忘れているのかも判然としないような全面的な忘却−から生じている
3)恥を覚える人間は、忘れたものの穿鑿につとめざるを得ない
4)忘却は現在あるいは近しい過去に関わるだけでなく、神話以前の古代とも関わっている
5)忘却−恥−穿鑿という余儀なきあり方を「太古の世界が罪という形で差し出してきた鏡」に映し出すと、「裁き」が、訴訟が映し出される
6)忘却−恥−穿鑿が余儀なきものであるならば、人間は忘却に抗って穿鑿を続けるより他はない。もしかするとそれはサンチョ・パンサの旅のように楽しいものになるかも知れない
<Der Besonneneの訳しかた>
野村報告では「理性人」と訳されているが、原語はむしろ慎重な人間、思慮をつくす人、という意
<インゲボルグ・C・へネルによるカフカ解釈>
カフカの作品に出てくるすべては、主人公の内面の投影であり、それは実在性・客観性を持たないものである
→『訴訟』の解釈はそれで良いかも知れないがそれを『城』や他の作品にまで適用するのはおかしい(三原)
カフカの逃げ道−1917年、ブロートにあてた手紙から>
子どもの頃の逃げ道=自殺を考えること
1917年に見出した逃げ道=自分のこれまでの人生の輪郭をなぞってみること
→「アフォリズム集成」、「父への手紙」
<『訴訟』のラストシーンの捉えかた>
‘’Wie ein Hund!’’ sagte er, es war, als sollte die Scham ihn uberleben.
<まるで犬だな>とかれはいった、あたかも、恥ずかしさだけは生き残らせようと願うかのように(野村訳)
従来の訳では赤線部は「恥ずかしさだけが生きのびていくようであった」と解釈されている(好村)
カフカのals ob構文の特徴>
外形的なもの(登場人物の具体的な動作・身振り・表情・発言)als ob/als内面的な説明
als以下の内面描写は、動作・発言の主体内部にある見解−時としては無意識の見解−が表出される場合もあれば、語り手なり作者なりの見解が表出されることもある
<ヨーゼフ・Kの逮捕>
実存主義的捉えかた=
ヨーゼフ・Kは、彼と対立する権力の世界によって弾圧され抹殺される犠牲者として逮捕された
花田清輝・粉川哲夫的捉えかた=
ヨーゼフ・K自身がなぜ逮捕されるのかわかっていないことが彼の罪である
<講義にて>
・野村修さんは、東西ドイツが分裂したとき東ドイツに行った人
・80年代あたりまではブレヒト社会主義的リアリズムの作家として見做されていた
ベンヤミンに対する評価も今と当時とでは異なっていた
ルカーチブレヒトブロッホ表現主義論争