カラマーゾフ/ガリレオ

先日録画していたドキュメンタリー『21世紀のドストエフスキー』とドラマ『ガリレオ』を観た。後者は少し置いておくとして、前者について語ると、亀山さんと森達也さんの対談が一番面白かった。森さんが、ドストエフスキーポリフォニーに関して言及されていて、ドストエフスキーは人間を「善人/悪人」という単純な二元論から描くのではなく、ひとりの人間に内在する様々な性質を描き分けているとおっしゃっていた。つまり、ドストエフスキーは人間の複雑さをきちんと描いていると。さらに、イワンとスメルジャコフの関係について、人が罪を犯すとき、様々な要因が絡まりあっている、とおっしゃっていた。イワンがスメルジャコフをインスパイアし、殺人に駆り立てたということも言えるし、ドミートリーや、もしかするとアリョーシャも何らかの影響を与えていたかも知れない。人は、悪い人間が(単独で)罪を犯すんだ、と思いたがる傾向があり、自分と犯罪者を無関係なものとして見做したがるが、そうとは言い切れないんだ、とそういう意味のことをおっしゃっていた。
森さんがおっしゃった後者のことは、人は犯罪者であるのではなく、犯罪者になるのだ、というふうに言い換えることができると思う。そこで新ドラマ『ガリレオ』の話になるのだが、普通に観ていて、ギョッとしてしまった。柴崎コウ演ずる刑事が、交通課にいたころに痴漢を65人、おとり捜査によって逮捕したという件で、「毎日、ミニスカートを履いて乗車してやりましたよ。セーラー服もあったかな」としたり顔でのたまったからだ。先ほどの森さんの意見を痴漢に援用するなら、その人を痴漢にしたのは柴崎コウ演ずる刑事ではないのかと。痴漢で逮捕された人間にも、様々パターンがあるはずで、常習的に繰り返している人間もいれば、魔が差したという人間もいるはずなのに・・・。もし柴崎コウ演ずる刑事がそんな蠱惑的な格好をしていなければ、痴漢にならずに済んだ人間もいたはずなのに・・・とどうしても思ってしまう。無論、潜在的な痴漢願望がなければ、あるいは人並みの自制心があれば、実際に痴漢行為などすることはないだろうが、ギリギリのラインで何とか抑制している人間もいるはずである。そういった人たちをわざわざ痴漢行為に駆り立て、逮捕する必要があるのだろうか。そしてそれを刑事が面白おかしく話しても良いものなのであろうか。まぁでも、痴漢などの性犯罪は、悪辣な常習者が多いと聞くので、おとり捜査はそれなりに有効なんだろうとは思う。確率論的には。