嫉妬云々

昨日の『京都迷宮案内』は非常に面白い話でした。内容はhttp://www.tv-asahi.co.jp/meikyu/を参照して欲しいのですが、男の嫉妬、あるいは、男の悲しみに関する、妙にリアリティーのある話でしたね。「出世頭/不自由」な河辺専務が、「出世とは無縁/自由」な杉浦恭介に嫉妬して、陥れようとするわけですけど、こういう嫉妬の感情は、実際にあるみたいですね。少し古い話になりますけれども、小林秀雄中原中也青山二郎に対する嫉妬などは有名でしょう。ある意味これは、秀才の天才に対する嫉妬とも近いものがあります。
中原中也にしても、青山二郎にしても、その才能を存分に活かすわけでもなく、杉浦恭介の如くフラフラしているわけですが、その天才を理解できる小林にとっては、これ以上歯がゆいこともないわけで、「精進しろてめぇ」みたいなことになるわけです。社会的に成功するのは、小林のような秀才タイプですが、彼らは、社会的には失敗している天才達を見下すと同時に、その才能に嫉妬しているわけで、さらに、天才タイプの人々は社会的な成功を屁とも思っておらず、マイペースに構えているので、ますます苛立つわけです。その天才を理解しない社会に対する苛立ちも、もちろんあるでしょう。嫉妬とはいっても、とても屈折している感じがしますね。
こういった嫉妬の形態は、至るところに存在しているように思うんですけどね。おそらく、ヘミングウェイもフォークナーに対して嫉妬のような感情を抱いていたでしょうし、サリエリモーツァルトの話はもう少し単純な気がしますが。
少し古い話をしたあとで、『ちりとてちん』の話に入るのですが、B子がA子に対する嫉妬(あるいは羨望)の感情を吐露する場面がありましたよね。それに対してA子は「でも、私もB子のことが羨ましかったよ」みたいなことを言うわけですが、あの場面は非常に興味深いですね。杉浦恭介だって、河辺専務に対して何かしら嫉妬のようなものを持っていたのかもしれません。不自由な人間には不自由な人間の、自由な人間には自由な人間の、地獄があるということで。