好村富士彦「カフカにおけるユダヤ人性」」(池田浩士、好村富士彦、小岸昭、野村修、三原弟平『カフカ解読−徹底討議「カフカ」シンポジウム』所収)

報告:好村富士彦
ユダヤ人作家とは>
・属している社会でのユダヤ人の同化の度合い
・自己のユダヤ性を、自己の仕事の中で、どのように自覚的に扱おうとしているか
→この2つにある作家がユダヤ人作家と呼べるかどうかがかかっている

ベンヤミンカフカ紹介>
カフカユダヤ人作家
ヘブライ語の勉強
・作品に見出せるユダヤ的精神・思想・言語
ニュルンベルク法(1935)以前のユダヤ人、以後のユダヤ人>
ニュルンベルク法以前のユダヤ人:みずからの意志でユダヤ人共同体の中に留まり、ユダヤ教を自己の宗教として信条告白する者
ニュルンベルク法以後のユダヤ人:ユダヤ人の血を引く全ての者
カフカの小説・日記・書簡とユダヤ性>
小説:ほとんどユダヤ関連の事柄を取り上げていない
日記・書簡:ユダヤ教の祭儀、教育、歴史、反ユダヤ主義シオニズム、ハシディズム、ヘブライ語、イディッシュ劇場などについて言及
プラハにおけるユダヤ人の状況>
・ドイツ系移民としてチェコ人に対して優越した立場
・ドイツ系移民の中での政治的・日常的差別
チェコ人憤激のはけ口
<父へルマン>
・典型的な成り上がり者
チェコ人としてよりドイツ系ユダヤ人として自己を位置づける
・四日ユダヤ人(=宗教に無関心)
カフカユダヤ性>
・青春時代はほとんどユダヤ教に無関心
・1911年(カフカ27歳)のときイディッシュ劇団の舞台を観て、ユダヤ人の問題に関心を持つようになった
→イディッシュ劇は「判決」以降のカフカの文学表現に大きな影響を与えたと言われている
ユダヤ教の中でもとりわけカバラに興味を持つ
・友人のマックス・ブロート、フェーリクス・ヴェルチェはシオニズムの信奉者であったが、カフカは同調できなかった
<なぜカフカは小説の中でユダヤに言及しなかったのか?−ブロートの見解>
小説と日記・書簡・アフォリズムではカフカの自己像が異なる
・日記・書簡の中の自己像:人間の中に「壊れえないもの」を認め、あらゆる試練においても天国と超越者への信仰を失わない、旧約の預言者にも比較しうる宗教的英雄
・小説の中の自己像:自己の中に「壊れえないもの」とのつながりを見出せず、信仰に自信を失って、動揺する人間
 →一見もっともらしいが承服しがたい(好村)
  Ex.)アフォリズム74
    「楽園で破壊されたといわれるものが破壊しうるものであったら、さして重要なことではなかったはずだ。だがもしもそれが破壊できぬものであったら、我々は間違った 信仰に生きていることになる」
     →懐疑的・否定的な意味で「壊れえないもの」について語っている
<マルガレーテ・ズースマンのカフカ文学解釈>
カフカ文学にはヨブの問題−つまり苦難と罪の問題−が前面に現れている
→ブロートの見解よりは的確だが、ズースマンもカフカを宗教的英雄に仕立て上げようとする傾向を免れていない
<他の批評家たちの解釈>
エルンスト・ブロッホの見解:カフカ文学は沈んだ世界、それは崩壊の中で染み出てきたイスラエル以前の罪と夢の地下水に含まれる昔の禁令や掟や秩序の守護霊などを反映している
ヴェルター・ベンヤミンの見解:カフカの小説は沼沢的世界で演じられる。登場する被造物はバッハオーフェンが乱交的段階と名付けている時期のものである。
ブロッホベンヤミンに共通するのは、カフカ作品が有史的過去をはるかに越えた遠い先史時代の段階を映し出していると見る点にある(好村)

テオドール・アドルノの見解:カフカの作品にはナチズムの国家体制に対する批判的先取りがある。
カフカ作品における未来的なもの>
ブロッホの見解:カフカ作品には、我々がその内容を洞察できたことのないような未知の委託−すなわち未来から来るもの−が含まれている
ベンヤミンの見解:カフカ作品における未来的なものは人類の遠い乱交的過去が招き寄せる罰である。だがこの罪(罰?)の形で到来する未来の光の中で罪は浄められ救済の第一段階になるのである。
<なぜカフカは小説の中でユダヤに関して言及しなかったのか?−好村の見解>
カフカの作品世界はユダヤ人とかキリスト教徒とかいう区別が意味を持つ時間および空間とは別のところで生じる事柄を描こうとしている

討論
ユダヤ人性と結び付けられる作品>
「ジャッカルとアラブ人」、「あるアカデミーへの報告」
マルティン・ブーバー(編)の月刊誌『デア・ユーデ(ユダヤ人)』(=シオニストの機関紙)に掲載された
ユダヤ文学とは−ブロートvsブーバー>
ブロートのいうユダヤ文学:たとえ外国語であろうと、ユダヤの精神がその中で声を発していれば、それはユダヤ文学(精神性の問題)
ブーバーのいうユダヤ文学:ヘブライ語で書かれたものがユダヤ文学(言語の問題)
<マイナー文学>
マイナー文学:少数民族が広く使われている言語を用いて創造する文学
→マイナー文学は個人的事件を扱っても、それを必然的に政治的なものへと結合させると同時に、不安、苦悩や絶望を喜劇的なもの、笑いへ移行させる特性を帯びている(小岸)
<イディッシュ演劇とカフカ
ベック『カフカとイディッシュ演劇』
1912以前の作品:ゆるゆるとした構造、だらだらとしたセンテンス、詳細すぎる事実、散漫な効果、のろいテンポ、作者自身の心理と密接に結びついた不明瞭な登場人物
1912以後の作品:ぴちっとした構成、まっすぐの限られた焦点、自己の生命を持った明確な登場人物、修飾語句の控え目な使用、誇張された身振りとタブローへの信頼、高められたサスペンス、クライマックスと崩壊との間を振幅する激しさ
→ベックは文体上の変化だけを指摘している。「異化」のためのそれとして考える視点が抜け落ちている(三原)
カフカヨブ記、弁神論>
ズースマンのいうヨブの問題:弁神論の問題(神の正しさを自分で理解しようとすること)
→弁神論のもともとの意味は「世界における諸悪の存在が全能な神の善性と矛盾するものでないことを明らかにしようとすること」
<弁神論への執着と故郷喪失>
ユダヤ人の故郷喪失
イェルサレムの神殿破壊後
・純粋、無条件に見えざる神に帰依する
→離散しながらひとつの宗教を守り続けるには、常に源への問いかけを必要とする(好村)
<神の存在に対するヨブとカフカ
ヨブ:神のあり方を問題にするが、神の存在自体に対する疑念はない
カフカ:神の存在自体を信じているとも信じていないとも言わない
<挫折をめぐるカフカ観>
ベンヤミンカフカ解釈:挫折せざるをえなかった者のひとり(ブレヒトに由来)
            →境界性にあるものは挫折を運命づけられている(三原)
            →境界性的な存在である限り、挫折するはずがない(好村)
            →ふたりの意見の違いは、挫折観の違いに由来しているのでは(野村)
ベンヤミンの挫折するカフカ観:カフカをヨブ的伝統(全過程を最後までつきつめていっても答えがつかないことを見通している)にあるから、カフカは挫折している
ブレヒトの挫折するカフカ観:カフカは思考をつきつめることにも、文学にのめり込むことにも徹しきれていないから挫折している
ベンヤミンカフカ論のソース>
バッハオーフェン『母権論』(1861)
プロイス(アニミズム、前アニミズムを論じた文化人類学者)
→ブロート周辺の神学的解釈と一線を画している(小岸)
<家具>
ブロッホ『この時代の遺産』
目的形式としての家具   →   自己目的としての家具
            (新即物主義
カフカ文学における家具:家具に対する考え方の描写(『変身』)
            道具からの転用(『城』)
ドン・キホーテサンチョ・パンサ
カフカの解釈:ドン・キホーテ=悪魔
       サンチョ・パンサ=諸国遍歴自体を楽しむ自由人
野村の解釈:ドン・キホーテ=K、ヨーゼフ・K
      サンチョ・パンサカフカ
小岸の解釈:ドン・キホーテ(独身者+悪魔のような理想主義)とサンチョ・パンサ(妻帯者+徹底した現実主義)との中間=カフカ

愛すべきカフカ研究者達−好村富士彦・三原弟平

指導教官が学会の後、好村富士彦さんの教え子という人と飲んできたらしい。そして好村さんに関する話で盛り上がったそうな*1。好村さんは若くして亡くなったのですが、カフカ研究者には、そういう破滅系の人が多いらしいですね。
僕が最近精読している『カフカ解読−徹底討議「カフカ」シンポジウム』ですが、この本は三原弟平というカフカをやっている面白い若造がいるらしいということで、少し揉んでやれというのが裏テーマだったようです。確かに、この本の中に収録されている討論のテンションたるや、今では考えられないくらいすごくて、強者揃いのベテラン勢の中に、当時30代だった三原さんがいるのですが、三原さんは全く物怖じすることなく、異論反論を述べまくっていて、ホントに驚きです。僕も三原さんの本を愛読していますが、その知識量、発想力、ロジック、あらゆる点において、三原さんの右に出る者はいないでしょう*2カフカといえば、池内紀さんが有名ですが、池内さんの本は単にSander. L.GilmanやKraus Wagenbachなどの海外の研究者の業績をピックアップしたものなので、新しい情報はないですね。もちろん、よくまとまっているので重宝させていただいておりますけどね。各研究者によって、貢献の仕方が異なる、ということでしょう。

*1:好村さんは大酒飲みで、愛すべき趣味も持っていたようです

*2:もちろん、カフカ研究という狭いカテゴリーの中での話です